ゆめカフェができるまで           

今度はおぬしが夢を叶える番じゃ

朝倉市秋月の砲術物語vol.4             《エピローグ》砲術一筋、夢を追い続けた生涯

 私が1歳になる前に他界したから、祖父の記憶は残っていない。母が語るイメージは、「薄幸の人」。戦争に人生を奪われ、仕事もうまくいかず、やっと見つけた夢半ばで病に倒れた。苦労ばかりの一生だったと。

 はたして本当にそうだろうか。祖父の人生を追ううちに、イメージは徐々に塗り替えられていき、すべてを振り返った今、強く確信した。

 苦労は多かったけれど、夢を追い続けた人生にはきらめく瞬間がたくさんあった。祖父がその時々で感じたであろう喜びや興奮が、リアルに伝わってきた。与えられた運命の中でベストを尽くし、悔いのない幸せな人生だったのではないだろうか。

 最近になって、母が祖父の晩年の話をしてくれた。医師から末期がんであることを告げられた家族は、告知しない道を選んだ。「でも、本人はもう分かってた」(母)

 〈ただの胃潰瘍〉にしては、検査の種類が多すぎるし、治療をしても体調は悪くなる一方。ある日突然、「本屋に行きたい」と言い出した。連れて行くと、他の本にまぎれて、こっそり医学書を購入していたそうだ。祖父は何も言わなかったが、このとき、自分の余命をはっきりと自覚したのだろう。

 落ち込んでしまうのではという周囲の心配に反して、その後の行動がすごかった。以前にも増して、熱心に砲術に取り組み始めたのだ。「それこそ寝る間も惜しんで」(母)、持てる知識のすべてを弟子たちに伝えた。

 ドクターストップも聞き入れず、実演会にも参加した。このときすでに、食べ物を受け付けず、見る影もなくやせ細った体は、撃つときの反動で吹き飛んでしまう。それでも「誰よりうまかった」と、後に保存会のメンバーが母に話してくれたそうだ。

 祖父にとって、私は待望の初孫だった。生まれる日を今か今かと心待ちにしていたが、母が出産したときは容体が相当悪く、ベッドから起き上がることができない状態だった。周囲が止めても、「どうしても産院へ行きたい、孫の顔をひと目見たい」と言い張ったそうだ。

 母が退院し、ようやく生まれたばかりの私を抱っこしたあと、ヨチヨチ歩きも、カタコトおしゃべりも見ることなく、息をひきとった。

 祖父の死後、身内だけで静かに見送る予定だったが、郷土館や保存会のはからいで葬儀は盛大に行われ、大勢の人が参列したという。それから40年以上たった今でも、生前、切実に願っていた砲術の伝承は、保存会の人たちの手で受けつがれている。

 そして平成29年10月、城下町として栄えた歴史を後世に伝える朝倉市秋月博物館がオープン。祖父がまいた種は、着実にこの地に根づき育ち続けている。

 「情熱を持って生きる」。私は、祖父の人生から、大切なメッセージを受け取った。戦争や病気で、何度も絶望の淵に立たされながら、祖父はけっしてあきらめなかった。運命をうらんだり、人のせいにしたりせず、自分の持てるエネルギーと時間のすべてを夢に注いだ。祖父のことを、心から尊敬し、誇りに思う。

 最後に、祖父の人生を振り返るきっかけを作ってくださった恩師、伊藤耕一氏に、心から感謝を申し上げたい。

 

【参考資料】

新日本紀行~蘇った砲術~』(NHK、1979年10月31日放送)、『新日本紀行~城下町に砲声が響く~』(NHK、2009年2月14日放送)、『林流抱え大筒』(甘木市教育委員会、1999年)