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今度はおぬしが夢を叶える番じゃ

夢見ヶ崎動物公園絵本プロジェクトvol.14         ~埋もれていた「幸区歴史物語」~

 2018年4月29日。幸区役所から紹介していただいた日吉郷土史会のITさんに、地元の歴史について取材をしました。

  編集者Iちゃんのストーリーのイメージは「この場所が形を変えながら、地域を見守り支えてきた」。では、時代とともにどんなふうに形を変えてきたのか、時系列で知る必要があります。

 歴史の調査は、かなり難航しました。幸区に住んでいるはたらくらすのHちゃんに聞くと、「武蔵小杉の図書館に資料あるよー」と教えてくれたので、かたっぱしから歴史に関する資料を借りて目を通しました。

 でも、小倉池や夢見ヶ崎の名前の由来など、ピンポイントの歴史は詳しくのっているのですが、「時系列の流れ」が分かる資料が、どうしても見つかりません。

 もうあきらめようかと思っていたところ、4月に入ってからやっと探し求めていた資料にたどりつきました。区役所の担当者に連絡をすると、すぐに用意してくれました。幸区40周年記念誌と日吉郷土史会がまとめた年表です(区役所Nさんありがとうございます!)。幸区の変遷が、時系列で詳しく解説されていました。

 今まで調べてきた、たくさんの「点」が、「線」につながりました。

 さらに、区役所が、地元の歴史を長く研究してきた日吉郷土史会のITさんを紹介してくださったのです。ITさんは、年表だけでは分からない興味深いエピソードを詳しく教えてくれました。

 たとえば、見渡す限り田んぼだったころは、自宅の庭に、野鳥がたくさん遊びにきていたこと。工場が立ち並んだときは、川が汚れて、子供たちがゴミをかきわけながら川遊びをしていたこと。さまざまなエピソードを聞いて、そのころの光景が目に浮かびました。

 幸区の歴史が、「点」から「線」へ、さらに、ITさんへの取材で、一気に「面」へと広がっていきました。

 

 ITさんの話によると、この地の歴史は、縄文時代までさかのぼります。夢見ヶ崎動物公園がある加瀬山は、なんと海に浮かぶ島だったのだそう。物資の輸送手段が限られていた時代、海に囲まれた好立地を生かして水運業で栄えました。

 その後、有力な豪族が集まり古墳が作られた時代、海岸線が後退して田園風景が広がっていた時代、緑豊かな地から一転、工場が立ち並んだ時代、戦争で焼け野原になった時代、そして、高層マンションや商業施設の建設ラッシュが続く現代へ……。加瀬山を中心に、時代とともに大きく変わっていく風景。ここで暮らした人たち。壮大な歴史に、想像が膨らみました。※取材した歴史は下にまとめています。

 

 ITさんの話の中でもっとも心に残ったのが、古墳時代の話。「史実にはいろいろな説があり、私の推測の部分もありますが」と前置きをして話し始めたのは、日本書紀にも登場するヤマトタケルノミコトとその妻であるオトタチバナヒメの物語――。

 

 夫婦はこの地に暮らし、2人の子供を授かります。「通い婚」の時代、ヤマトタケルノミコトオトタチバナヒメのもとへ通っていた道には、「恋路」という地名が残りました(現在の越路)。ところが幸せな日々は、突然終わりを告げます。オトタチバナヒメが荒れた海を鎮めるために海に身を投じ、嘆き悲しんだヤマトタケルノミコトは亡き妻を葬るため、加瀬山に立派なお墓を作りました。それが、全長87m、高さ10mと、関東では最大級の白山古墳。この古墳から発掘された「三角縁神獣鏡」は、ヤマトタケルノミコトオトタチバナヒメに贈ったエンゲージリングのようなものではないか。遺跡や出土品の特徴、規模から、このようにTさんは考えているそうです。

 

「オトタチバナが海に身を投げた話は、このあたりじゃ有名だけど、ヤマトタケルの話はまったく知らなかった。 “恋路“を歩いてみたいね。お散歩ルートを作ったら?」と、子どものころから地元に住んでいる社長Oちゃん。この地に埋もれていた歴史を知り、漠然としていた物語のイメージが少しずつ見えてきました。

 

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幸区の歴史》

 幸区の歴史は、紀元前の縄文時代までさかのぼります。夢見ヶ崎動物公園がある加瀬山は、縄文時代、海に浮かぶ島でした。食料や燃料の輸送手段が限られていた時代、海に囲まれた好立地を生かして水運業で栄えました。

 古墳時代には、有力な豪族が集まり古墳が作られました。代表的な古墳は、西暦 350年ごろに作られた加瀬白山古墳。全長87m、高さ10mと、関東では最大級の規模と言われています。

 江戸時代には、稲作が盛んにおこなわれ、見渡すかぎりの広大な田園が広がっていました。多摩川の豊富な水源に恩恵を受ける一方、何度も洪水を繰り返し、「暴れ川」とも呼ばれていたそうです。

 緑豊かな地から一転、明治時代には、横浜精糖(後の明治製糖)や東京電気(現在の東芝)が次々に操業を開始。工業都市として発展します。しかし、明治40年、43年と立て続けに多摩川の大洪水に見舞われ、工場が大きな被害にあったため撤退の危機もありました。そこで、工場用地を整備するために、加瀬山を崩して南河原東南部の土地をかさ上げし、工場用地を造成しました。

 そして、高層マンションや商業施設の建設ラッシュが続く現代へ……。夢見ヶ崎動物公園は1972年(昭和47年)に開園しました。

 夢見ヶ崎動物公園絵本プロジェクトでは、加瀬山を中心に、時代とともに大きく変わっていく風景をモチーフに、ストーリーを創りあげました。