ゆめカフェができるまで           

今度はおぬしが夢を叶える番じゃ

朝倉市秋月の砲術物語vol.3                  実りのとき         

秋月の抱え大筒の評判は次第に広がり、やがて転機が訪れる。世界から一流スポーツ選手が来日する東京オリンピックアジア競技大会のオープニングセレモニーに、砲術が採用された。

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 これまで地域のイベントには数多く出演していたが、東京オリンピックアジア競技大会は、勇造にとって初めての大舞台。国内のみならず、世界に向けて発信できる。砲術を多くの人に知ってもらいたいと願っていた勇造にとって、願ってもないチャンスだった。

 大会当日、実演はみごとに成功し、セレモニーに華を添えた。アジア大会で砲術をご覧になった今の天皇陛下といっしょに撮影した写真が残っている。そして、これを機に、急速に林流抱え大筒の知名度が高まることになる。

 夢が現実のものとして形になっていく中、勇造は、次なる目標に向かって動き出した。それは、砲術の知識と技術を秋月の若者たちに伝え、後世に残すこと。今伝えなければ、再び途絶えてしまうだろう。

 昭和46年、秋月に林流抱え大筒保存会を発足。電気屋や米屋、材木屋などさまざまな職業を持つ青年10人が集まった。鉄砲に触れたことのない戦後生まれ若者たちに、勇造は熱心に技術を教えた。

 さらに強力な助っ人も現れる。地元に幅広いネットワークを持つ秋月郷土館が、人材集めから広報、練習所の確保まで、全面的な協力を申し出てくれた。

 長い間、孤軍奮闘を続けてきた勇造にとって、いっしょに夢を追う仲間ができたことは何より心強いことだった。

 保存会結成から3年後の昭和49年1月、ついに長年温め続けてきた悲願がかなうときが来る。林流抱え大筒が甘木市(現朝倉市)の無形文化財に指定された。手作りした分厚い資料の束を持って、役所に何度もかけあってきた。

 やっと実現にこぎつけただけに、普段は感情をあまり表に出さない勇造が、飛び上がって喜んだという。一報を受けると、すぐさま自宅の玄関先に「祝・無形文化財登録記念」と書いた記念碑を立てた。

 すべての歯車がうまく回り始めたように見えたそのとき、勇造は自分の体にただならぬ異変が起こっていることに気が付いていた。風邪や疲れとは明らかに異なる違和感。ずいぶん前から気がついていたが、無形文化財の登録にこぎつけるまでは何があっても倒れられないと、周囲にも体調不良を隠していた。念願がかなって間もなく検査に行ったときは、すでに遅かった。末期のがんが体をむしばんでいた。

 その後、懸命の闘病生活を続けたが、病状は急速に悪化。無形文化財に登録されたその年の夏、勇造は天国へと旅立った。享年64歳。あまりにも突然の死だった。