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今度はおぬしが夢を叶える番じゃ

朝倉市秋月の砲術物語vol.2                  孤軍奮闘の戦い

研究を始めたものの、秋月の砲術についてまとめた資料は、ほとんどなく、調査は難航を極めた。頼りは、勇造が父から口頭で伝え聞いた記憶のみ。さらに、鉄砲の収集や実演会の遠征に費用がかさみ、資金繰りにも行き詰る。10年以上にわたって、孤軍奮闘の戦いが続いた。

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 秋月藩の砲術には、もともといくつかの流派があったが、祖父が初代の保存会メンバーに伝えたのは「林流」。座った体勢で撃つ「浮き船」、立ったままで撃つ「稲妻」など、撃つときの体勢によって四つの〈型〉に分けられる。戦いの場所や状況によってこれらの型を使い分けていた。

 勇造は、まず砲術に関する書物や古い文献を片っ端から探し歩いた。厳しいルールがいくつもある型について、記憶の断片と文献の情報をひとつひとつ照らし合わせていく、気の遠くなるような地道な作業。勇造の長女である母は、山のような文献にもくもくと向き合う姿を、今でも鮮明に覚えているという。

 縄田家には、技術とともに先祖から受け継いできた抱え大筒があった。約170年前に製造されたもので、本体に旧字体で「神機」と書かれている。これが現在、朝倉市秋月博物館に保管されている抱え大筒である。勇造は、この鉄砲を自宅の居間に飾り、暇さえあれば丁寧に磨きあげていた。

 秋月藩が所有していた抱え大筒は、全国各地に散らばって行方知れずになっていた。勇造は、それらの収集作業もコツコツと続けた。同様の形の鉄砲があると聞けば、どこへでも飛んで行った。抱え大筒は、鉄と木の部分が連結してできている。歳月を経て木の部分が腐食し、元の状態のまま残っているものは少ない。文献で抱え大筒の仕組みを調べて、バラバラの部品を組み合わせ、なるべく原状に近い形で復元した。

 こうして何年もかけた研究の成果をまとめ上げる。この知識を自分の中に眠らせておくのはもったいない。勇造の胸には、多くの人に秋月の砲術を知ってほしいという夢が生まれていた。

 しかし、砲術隊の歴史はとうの昔に忘れ去られ、地元の人でさえ知らない。熱心に話をしても、最初はまったく相手にされなかった。それでも粘り強く交渉を続け、ようやく地元のイベントで、実演会を開くことができた。観客の目の前で、練習を積み重ねてきた砲術の技を披露する。もちろん実弾ではないが、大地を揺るがすような大音量とともに、もうもうと立ち込める白煙。大迫力の演出は、イベント会場を大いに盛り上げた。

 地道に実演会を続けるうちに口コミで広がり、次第に全国から出演の依頼が来るようになる。自動車が一般的ではない時代、移動は徒歩と電車。声がかかればどこへでも、30キロある大筒と袴などの衣装を抱えて出かけて行った。こうして、少しずつではあるが、着実に林流の砲術は全国に知られるようになる。

 一方、資金繰りに行き詰るようになっていた。抱え大筒の購入や実演のための遠征には、多額の費用が必要になる。終戦後は銀行に勤めていたが、サラリーマンの給料から考えると、趣味の域をはるかに超えていた。その銀行勤めも、砲術にのめりこんで辞めてしまった。4人兄妹の長女である母が、まだ小学生のころである。時間に融通の利く自営業で生計を立てようとしたが、なかなかうまくいかず、家計はいつも火の車。祖母をはじめ、家族は砲術に対して良い感情を持っていなかった。

 勇造が砲術に没頭する様子は、「尋常ではない熱心さだった」と、保存会のメンバーが証言している。私財をつぎ込み、仕事を辞め、家族の反対を受けてまで打ち込んだのは、周囲にはけっして語らない事情があった。30代前半まで、勇造の人生はとんとん拍子だった。学生時代は成績優秀、地元の進学校から大学へ進む。祖母と結婚したあと満州に渡り、鉄道関係の仕事を始める。若くエネルギーにあふれた勇造は、未知の可能性を秘めた異国の地で一旗揚げようと、希望に燃えていた。懸命に働いてお金を貯め、土地を手に入れることができた。長男も誕生し、何もかもこれからというときに、突然人生は暗転する。戦争が始まり、祖母は生まれて間もない長男を抱いて命からがら帰国。勇造はシベリアに抑留された。

 終戦後、数年たっても音信不通が続き、もう戻らないものと覚悟を決めた祖母のもとに、変わり果てた姿で現れた。骨と皮だけにやせ衰えて、生きて帰って来られたのが不思議なくらいだったという。

 奇跡的に体力を取り戻したものの、40歳を過ぎて一からの出発は容易なことではない。満州で築いた土地と財産を失い、日本でのキャリアはない。最大の障害は、戦後数年にわたる空白期間だった。大きく出遅れた分、周囲の人との間を隔てる溝は深い。世の中の様子は終戦直後とまったく違い、母いわく「まるで浦島太郎」の状態だったそうだ。就職活動は困難を極め、やっと知人の紹介で得た銀行の仕事も始めから出世コースを外れていた。

 情熱を傾けるものが見つからないうつうつとした日々の中で思い出したのが、子供の頃父に習った砲術だった。母は「父には砲術しかなかった」と言う。戦争で夢と働き盛りの時間を失った勇造は、やりきれない思いを砲術にぶつけたのではないだろうか。