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朝倉市秋月の砲術物語vol.1              一丁の鉄砲に秘められたある物語

2017年10月、朝倉市秋月博物館がオープンした。その片隅にひっそりと保管されている、一丁の古い鉄砲。長い年月の間、埋もれていた朝倉市の歴史に光をもたらした立役者である。鉄砲に秘められた物語と、後世に伝えるため、人生をかけて奔走した一人の男のドラマを紹介したい。

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 福岡県の中央に位置する朝倉市秋月。江戸時代、秋月藩五万石として栄えた城下町である。秋月藩では特殊な技術を持つ砲術隊が活躍し、地元には今でも当時の砲術を受け継ぐ保存会がある。今から50年近く前に保存会を立ち上げ、初代メンバーに砲術を教えたのが、縄田勇造。筆者の母方祖父である。長い間途絶えていた秋月藩の砲術を掘り起こし、生涯を通して技術の継承に取り組んだ。

 秋月藩の砲術隊の鉄砲は、「抱え大筒」と呼ばれる。ふつうの火縄銃と違う点は、その大きさ。物によって差はあるが、銃口の直径は普通の鉄砲の約三倍、重さ三十キロ。発射する際、撃ち手の身体が吹き飛ばされるほどの衝撃を受ける。重い鉄砲を支えながら体勢を整え、銃口の角度を保ち続けるには、高度な技術に加え、腕や足腰の鍛錬が必要になる。

 抱え大筒の威力は極めて大きく、敵の城門や城壁を撃ち破るときに使われたという。江戸時代、秋月藩島原の乱に出陣した際も重宝された。現存する当時の屏風絵には、ひときわ大きな鉄砲を抱え、勇ましく戦う様子が描かれている。

 しかし、砲術隊が華々しく活躍する時代は、やがて幕を閉じることになる。明治の初頭、新政府に不満を持つ士族たちが起こした秋月の乱。戦いは惨敗に終わり、秋月軍は山河に散る。砲術隊長の中野五郎三郎は、戦で傷を負い、秋月とは山ひとつ隔てた村の農家にかくまわれた。手厚く看病してもらったお礼として、持っていた大筒を贈り、砲術を伝授したと言われている。

 その後、秋月では砲術の伝承が途絶え、次第に人々の記憶から消え去ったが、農村地区で親から子へ、子から孫へと、幾世代かにわたって伝えられた。

 この村出身の勇造は、子供のころ、父から先祖代々受け継がれてきたという砲術を教わった。長い間、勇造の記憶の中にとどめるのみとなっていたが、40代の半ばから、本格的に砲術の研究に取り組むようになる。